1992/02/16

エリスの文学に見るブラット・パック:第一章


第一章 
エリスの描くアンチ・ヒーロー



a. エリス文学とヒーロー像の発展
 ブレット・イーストン・エリスの三作品を読んで、私がまず感じたのは、それぞれの作品が順を追って発展しているということ、そしてエスカレートしている、ということである。つまり、彼の処女作『レス・ザン・ゼロ』から『ルールズ・オブ・アトラクション』へ、そして更にそれから『アメリカン・サイコ』という風にである。しかし基本的に彼の三作品は、裕福なお坊ちゃまである主人公の堕落した姿を描いているという点、その主人公の『ルールズ・オブ・アトラクション』においては主人公を含めた若者たちのという例外はあるが、日記的なものが作品となっているという点などで、大きく共通 するところを持っているのだ。ではどのような部分がエスカレートしているのだろうか。

 まず第一に、主人公のキャラクター間にエスカレートは存在している。つまり『レス・ザン・ゼロ』においては、登場する若者の中では、ブラット・パックという名ではくくれない、例外的にまともな存在であるクレイを主人公としているのだが、『ルールズ・オブ・アトラクション』では、他の若者とまったく変わらない、何の個性も感じられないショーンが主人公であり、『アメリカン・サイコ』に至っては、登場する若者の中でももっとも悪質な連続殺人鬼、『レス・ザン・ゼロ』の中で言うならリップのようなキャラクターであるベイトマンを主人公としているのである。

 そしてエンディング面 においてもエスカレートを感じることができる。『レス・ザン・ゼロ』ではハッピー・エンドともいえる主人公の成長と未来を感じさせる、明るいエンディングであるのだが、『ルールズ・オブ・アトラクション』においては、始めと終わりの場面 に何の発展も感じられないような構成である。さらに『アメリカン・サイコ』に至っては、"THIS IS NOT AN EXIT" (American Psycho, 399)という終わりのない殺人の世界を思わせる不吉なオープン・エンディングなのである。

 しかし、作品が順を追ってエスカレートしているというのは、単なる私の感想だけではなく、作品中できちんと証明されている。つまり、『レス・ザン・ゼロ』の主人公クレイがクリスマス休暇をロサンゼルスで過ごした後戻っていったニューハンプシャーの大学が『ルールズ・オブ・アトラクション』の舞台であり、その『ルールズ・オブ・アトラクション』の主人公ショーン・ベイトマンの兄が、『アメリカン・サイコ』の主人公パトリック・ベイトマンなのである。

 ここで私は、さまざまなところに存在するそんなエスカレートの中でも、主人公のキャラクター間のエスカレート、その中でも特に『レス・ザン・ゼロ』のクレイと、『アメリカン・サイコ』のベイトマンという、二人の間のエスカレートを中心に見ていきたいと思う。なぜならそれが一番重要だと思われるし、ブレット・イーストン・エリスの作品について、私は世代論を展開してみたかったからである。

 まず先にも少し触れたが、クレイとベイトマンのキャラクターを、そしてその二人の間のエスカレートを端的に述べてみたいと思う。それはクレイの性格の中のマイナス面 、つまりブラット・パックの特性である無感情、非道徳性、残虐性、ナルシシズム、特権階級意識、利己主義などを強め、エスカレートさせ、狂気として持っているのがベイトマンだということである。

 では、この二人の間のエスカレート、差を更に細かく考えるために、、それぞれの作品からの引用を含めながら、その差について述べたいと思う。

 まず、無感情、非道徳性、残虐性という性質をひとつの特質としてまとめると、その点における二人の差はどうであろうか。『レス・ザン・ゼロ』の主人公クレイにも確かにそのような部分は認められるのだが、それだけでもなく、かれは"Disappear Here"という看板の文字に異常におびえたり
Some mother pick their children up from school and the children catch sight of them and run across the yard and into their arms and the sight of the children running across the asphalt makes me feel peaceful; it makes me not want to get off the bench. (Less Than Zero, 164)
というくだりもあることから、彼の心の中には物事に敏感に反応したり、感動したりできる部分がまだ残っており、彼のキャラクターは一概にそうとは言いきれないところがあるのである。しかもクレイは残虐なビデオを見ていられなくなって部屋を飛び出したり、友人たちが少女をレイプしていてもそれに参加せず、そんな友人を非難するくだりがあることから、彼には正常な道徳心もあることがわかるのだ。しかし『アメリカン・サイコ』の主人公ベイトマンの心には、そのような部分は全く見受けられない。つまり、彼は残虐なビデオを好んで見たり、さらには自らが残虐な殺人を重ねる殺人鬼であるという点で残虐なことに対して感覚が麻痺してしまっており、道徳性という言葉からは程遠い人物像なのである。

 次に、二人のナルシシズムについて見てみると、クレイが自分の肌の白さを気にする程度であるのに対し、ベイトマンの自分の外見に対する執着にはすさまじいものがある。例えば彼はヘルスクラブやエステティックサロンに通 っており、自分の身じたくを述べるのに一つの章を使っているのだ。さらにそれだけでなく、自分の着ている服はもちろん、友人が作品中に登場する際には、その友人が着ている服も、ブランド名を羅列して説明するのである。

 では二人の特権階級意識はどうであろうか。クレイは自分たちが裕福であるということに気づいているのみで、そこから来る差別 意識は彼には特に認められない。この台詞は主人公のものではないのだが、これが主人公のその意識をよく表していると思われるので、その台詞を引用してみたいと思う。
"I go to University of Spoiled Children," Blair says, still grinning, running her fingers through her long blond hair.
"Where?" asks Daniel.
"U. S. C.," she says.
"Oh yeah," he says. "That's right."
Blair and Trent laugh. . . . (Ibid. 13-14)
ところが、ベイトマンの場合、その特権階級意識が差別 意識にまで発展しており、そのことは、彼のこの語り
Stash doesn't speak. Even though he is probably uncomfortable at the table with us since he looks nothing like the other man in the room --- his hair isn't slicked back, no suspenders, no horn-rimed glasses, the clothes black and ill-fitting, no urge to light and suck on a cigar, probably unable to secure a table at Camols, his net worth a pittance --- still, his behavior lacks warrant. (American Psycho, 13)
や、彼が同性愛者を"faggot"と、黒人を"nigger"という蔑称で呼ぶことによく表われている。

 また、利己主義という性質における二人の差について述べれば、クレイには、友人たちやガールフレンドのことが好きではないものの、彼らの意見に合わせるというところがある。一方、ベイトマンにはまったくそのようなところはなく、例えばガールフレンドがライブハウスに行こうと誘っても、その誘いをかたくなに拒んだりするのである。つまりベイトマンは、他人については外見しか興味がなく、他人の気持ちやしたいことなどお構いなしなのだ。 

b. 成長するブラット・パック
 今までは、ニ作品の主人公クレイとベイトマンの間の差、エスカレートがどのようなものなのかということを見てきたが、ここからはなぜそのような差が生まれるのかという理由について、私なりに考えたことを述べていきたいと思う。

 クレイとベイトマンの差は、クレイが18才、ベイトマンが26才という二人の年齢差が原因なのではないか。

 まず、無感情、残虐性などという点について述べれば、クレイの18才というのは、とても傷つきやすい年齢であり、思春期、青春期に特有の、大人と社会に対する反抗心を持つ年頃なのである。そのことはここによく表われてはいないだろうか。
There was a song I heard when I was in Los Angeles by a local group. The song was called "Los Angeles" and the words and images were so harsh and bitter that the song would reverate in my mind for days. The images, I later found out, were personal and no one I knew shared them. The images I had were of people being driven mad by living in the city. Images of parents who were so hungry and unfulfilled that they ate their own children. Images of people, teenagers my own age, looking up from the asphalt and being blinded by the sun. These images stayed with me even after I left the city. (Less Than Zero, 207-08)
また、18才ゆえにクレイは若者に特有の不安、つまり将来に対する不安を持っており、自分で何かを変えようという意識を持っているのである。その彼の意欲は、この彼と彼の恋人との会話に見ることができる。
"So, you're actually going back to school," she says.
"I guess so. There's nothing here."
"Did you expect to find something?"
"I don't know. I've been here a long time." (Ibid. 203)
ここからもわかるように18才のクレイは、無感情という現代病に取り付かれているように見えながらも、また実際にそうであっても、青春の悩みを持っているため、完全な無感情にはなりきれないでいるのである。ところが、ベイトマンは26才で、26才というのは一人前の大人であり、親の知名度や金銭に頼るのはある程度終わり、自分でもそこそこの社会的地位 を得ている年齢なのである。つまり、人生における暗中模索の時代は終わっている年齢なのだ。この点で26才は 18才より更に退屈な年齢だといえるであろう。しかもこのベイトマンの場合、扶養家族もいない独身貴族のため、がむしゃらに働く必要もなく、退屈な上に気楽な年齢でもあるのだ。であるから、26才は18才のときよりも無感情になり、退屈しのぎの方法がエスカレートし、残虐なものになるのはやむを得なくなるといえるであろう。また、この26才のベイトマンの方が退屈しのぎの方法がエスカレートし残虐なものになるということについては、もうひとつの理由が考えられる。それは26才のベイトマンは、裕福であるが故に心がむなしく退屈な、またそれ故に退屈しのぎに遊びに走りがちな青春期を過ごして大人になった世代のため、18才のころにやっていた遊びと同程度のものでは、彼には物足りなくなってしまっているということである。

 また、ナルシシズムという点におけるクレイとベイトマンの差についても、二人の年齢によってその差を説明することができる。まあ一方が18才の大学生、もう一方が26才のビジネスマンということを考えただけでも、ビジネスマンの方が立場上身だしなみに気をつけなくてはならないのは当然であるし、それにかけるお金も学生とはケタ違いに持っているから、ナルシシズムのエスカレートについては簡単に説明がつくのであるが、さらにつけ加えれば、それは大人になればなるほど、交際する人間の階級は選び抜かれ、狭まっていき、似かよった人が集まってくるようになるのではないだろうか。そしてその似かよった人々の中で、また社会人という規範の中で、他人と差をつけるのは難しくなってくるのではないだろうか。このような状況を考えると、18才のクレイよりも26才のベイトマンの方が、先にも述べたように外部の人間に対する差別 意識が生まれてくるのは当然のことといえるし、自分の外見を異常に気にするのも当然のことといえる、ということである。実際、『アメリカン・サイコ』の中ではベイトマンの外見や服装に対する執着は別 に異常ではなく、彼の友人は皆そうなのである。
"Hey Bateman," Craig says in a voice that suggests this is not his first martini. "Is it proper to wear tasseled loafers with a business suite or not? Don't look at me like I'm insane." (American Psycho, 31)
『アメリカン・サイコ』では、このような問答が何回か繰り返されており、このようなことから、26才のビジネスマンたちが、いかに自分の外見や服装を気にしているかということがよくわかるのである。

 また、利己主義におけるクレイとベイトマンの差についても、ナルシシズムのときと同じようなことがいえる。つまり、大人になればなるほど、自分の確立したものがあるだけにそれを守ろうとする自己防衛の意識が強くなるということである。ベイトマンの場合にももちろんそのことは当てはまり、彼の場合には、その自己防衛の意識が利己主義を強めているのではないだろうか。一方18才のクレイには、そのような自己防衛の意識があるはずもなく、そのため利己主義も、ベイトマンほどには強くないということになるのである。ところでベイトマンの場合、その自己防衛の意識、それに強められた利己主義が、自分の確立したものを否定されたり、どんなことにでも人に先を越されたりすると異常に反発するという形でも表われており、そのことは次のような箇所でもよくわかるのである。
It's really impossible to get a reservation at Pastels and I think Van Pattan, myself, even Prince, are impressed by, maybe even envious of, McDermott's prowess in securing a table. (Ibid. 39)
I stay uninvolved and with my back to him try to listen as McDermott complains to Van Pattan about how crazy I am for putting down the pizzas made at Pastels, . . . I have a knife with a serrated blade in the pocket of my Valentino jacket and I'm tempted to gut McDermott with it right here in the entranceway, maybe slice his face open, sever his spine; . . . (Ibid. 52)
ところで、今まで二人のキャラクターの差、そのエスカレートを、二人の年齢差に帰してその原因をいろいろと述べてきたが、考えてみれば、三作品における主人公の関連と移行は、エリスがあたかも、「クレイやショーンが成長すると、パトリック・ベイトマンになるのだよ」といっているようではないだろうか。そのことからも、二人の主人公の差が彼らの年齢差からくるのだという私の考えも、あながち間違いではないであろう。


CONTENTS
[序文]/[第一章]/[第二章]/[第三章]/[結語]
[参考文献]