2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:不思議なお話を

Panic Americana #3 (11/28/1998)

不思議なお話を
The Music of Coincidence
巽孝之

世の中には、いまも数知れない不思議がひしめいている。たんに予期せぬ事件がふりかかってくるという偶然(chance)の織りなす不思議ばかりでなく、ふたつ以上のまったく異なる事件がまったくの奇遇(coincidence)によって結びついてしまうことの不思議。すっかり忘れかけていた過去の事件が、思いがけない現在の視点から甦ってくることの不思議。ある人にとってはすべてと思われた事件が、別の人にとっては部分でしかないばかりか、その部分が実はまったく別の事件の全体像を逆照射するかもしれないことの不思議。それらのかくも不思議な渦の中にこそ、わたしたちが文学に親しみ続けるゆえんがある。

たとえば昨年は、名翻訳家として知られる柴田元幸氏の新著出版が相次いだが、その中の一冊『死んでいるかしら』収録のエッセイ「一枚のテープ」にからめてわたしへの謝辞があとがきに記されていたため、何人もの学生諸君から質問をうけた。なるほど、くだんのエッセイは 1980年代中葉に一世を風靡したパンクロッカー戸川純の『裏玉姫』を絶賛するものだが、謝辞にはそのテープを「貸してくれた」のが「巽孝之氏」だったという事実が明記されている。一読して、遠い記憶のページが一気に甦った。そう、かれこれ14年もさかのぼる 1984年の夏、わたしたちふたりはフルブライト奨学金同期の留学生として、ワシントン DCのアメリカン大学で 2週間に及ぶオリエンテーションを受けていたのだった。世界各国からの留学生が、そこには 50名ほども集まり、おなじ寮で寝食をともにするのである。なかでも柴田氏は、年齢がほとんどおなじで(わたしより一歳上になる)、専門領域がほとんどおなじという親しさもあって、自由時間にはともにダウンタウンを散策したり、グレイハウンドバスに乗ってリッチモンドのポウ記念館へ詣でたりしながら、このときじつに多くのことを語り合った。ある日、キャンパスで雨宿りをしているとき、たまたま音楽の話になり、彼が熱烈なサザン・オールスターズのファンだというのに対し、わたしが戸川純の名を挙げたのが、くだんのテープを貸すことになったきっかけだったと思う。夏の終わり、彼はイエール大学へ、わたしはコーネル大学へとそれぞれ移動したが、それ以後も連絡は密に取り、冬休みや春休みにはニューヨークやボストンなどで合流した。お互い、この留学がどんな結果をもたらすのかまったくわからず、不安に満ちた貧乏生活を送っていた点ではまったく変わらない。勤務先の都合上、一年弱で帰国することになった柴田氏からの留学中最後の手紙は「残念だけれど、それでも毎日冷やしタヌキが食べられるのが何よりの楽しみです」としめくくられていた。

じつをいうと、あの時の『裏玉姫』のテープはもう手元にない。当時はアメリカにおけるJポップ人気の黎明期で、サンディ&サンセッツにハマっていた親日派作家ブルース・スターリングに貸してしまったのである。「昆虫軍」の歌手と「蝉の女王」の作家ほど相性のいい取り合わせはなかったようで、以後とうとうテープは返ってこなかった。以来、久しく再購入もせず聴かないままに過ごしてきたのは我ながら不思議だが、しかし今回思い出す機会を得て、俄然聴きたくなったのもまた、もうひとつの不思議である。柴田氏の文章を読んだ直後、CD版『裏玉姫』を買いに走ったのは、いうまでもない。

わたし自身は、翻訳に手を染めることは少ない。世の中には達者な翻訳家はいくらでもおられるので、これはどうしても文学批評理論の上でもわたし以外には手がけられないと信じたテクストしか、積極的に訳したことはない。それよりも、独自の企画に沿ってさまざまな才能たちとともに一冊の本を編集したり共編したりすることのほうが、性に合っていると思う。スタンドプレイよりもチームプレイのほうが好きなのかもしれない。たとえばダナ・ハラウェイやサミュエル・ディレイニー、ジェシカ・アマンダ・サーモンソンらの『サイボーグ・フェミニズム』がそうであったし、ラリイ・マキャフリイの『アヴァン・ポップ』がそうであった。いずれも留学中の80年代中葉、ほんの 3年間のあいだに奇遇にも知り合った作家・批評家たちだが、10年以上たったいま、彼らの著作はすべて現代文学・文化研究の必須テクストになっており、あろうことかマキャフリイに至っては目下、成蹊大学訪問教授として半年間の予定で日本の教壇に立っている。

ところで、このふたつの企画に関しては、もうひとつ忘れがたい奇遇がある。

1991年 6月、トレヴィル版の編訳『サイボーグ・フェミニズム』を出した時にはじつに多くの反響があったのだけれども、この時、『図書新聞』の編集部が巻頭インタビューを取りたいということで研究室に訪れた。手帳を見ると、6月 21日 12時 30分のアポイントメントである。当時はまだ文化研究というのがさほど流通しておらず、話は霊長類学者ハラウェイと電脳文化や混成主体の関わりに終始したような気がする。インタビュアーはわたしの仕事全般をフォローしてくれている人物で、けっこう長く話し込んでいったが、その時印象的だったのは、ちょうどおなじころに風間賢二、越川芳明の両氏とわたしが企画編集に関わりアヴァン・ポップのコンセプトでまとめた最先端アメリカ小説アンソロジー『ポジティヴ 01』(旧・書肆風の薔薇、現・水声社)が出て評判になっていたために、話がそちらへも及んだことだ。インタビュアーは、本邦初紹介のマーク・レイナーの短編やマキャフリイの評論に、大いに刺激を受けたようだった。仕掛人のひとりとして、こんなにうれしいことはない。「ちょっと話はそれますが」と、彼は前置きした。「じつは、ぼくがいま書こうとしているのも、アヴァン・ポップ的なものなんですよね」。

この時のインタビュアーが、1998年度上半期に傑作「ブエノスアイレス午前零時」で芥川賞作家となった藤沢周氏である。彼からは以後もさまざまな依頼があった。1993年夏に再びフルブライトの援助で 2ヶ月間アメリカ滞在したときには、ウィリアム・ギブスンの第 4長編『ヴァーチャル・ライト』が出版直後だったため、是非『図書新聞』で日本初紹介をしたいという申し出があり、サンディエゴと東京のあいだでおびただしいファックスのやりとりをしたのを覚えている。UPUで送った原書カバーがなかなか到着せず、このとき藤沢氏はたしか、成田空港の税関にまで懸命に掛け合ったはずだ。あの暑い夏、一冊の本のために二人の人間があれほど心を砕くことができたのは、もうひとつの不思議である。

さいごに、これはわたし個人というよりは周辺で起こった事件なのだが、あたかもポール・オースターの映画にでも出てきそうな奇遇のエピソードをひとつ。

前掲『ポジティヴ 01』が出版された頃というのは、ちょうど前年に出たトマス・ピンチョンの第 4長編『ヴァインランド』を主題に日本英文学会でパネルが企画された頃でもあった。1991 年 5月 18日、明治大学和泉校舎にて、志村正雄(司会)、佐藤良明、宮本陽一郎の諸氏にわたしというメンバーで、各人各様、この新作を大いに語り尽くした。

その打ち合わせと称していちど神保町で飲んだ時のこと、宮本氏がこんなことをいいだしたのである。「このあいだ吉祥寺のマクドナルドで『ヴァインランド』を読んでいたら、ロック・ベーシスト風の青年から『ピンチョンの新作ですよね』って話しかけられたんですよ。カバーはずしてたのによくわかったなと思って、もうびっくりしちゃって」。宮本氏は当時成蹊大学勤務、わたしと同い年ながらはるかに生真面目な人物だが、しかしピンチョン作品にはロックバンドも出てきたりするので、ロックンローラーのファンがいること自体は、よく考えればありがちである。むしろ、生真面目な宮本氏が大学の帰りにマクドナルドでハンバーガーとコーク片手にピンチョンに没頭しているという構図のほうが、わたしにはよっぽどほほえましかった。

それからしばらくした 7月 5日、編集長・斎藤恵美子氏の肝煎りにより『ポジティヴ 01』出版記念パーティが同じ神保町で開かれる。とにかくイキのいいアメリカ短編を選りすぐったので、翻訳参加者も多かったが、このときに脇に座ったのが翻訳版権取得では定評のあるユニ・エージェンシー勤務だった須川善行氏で、奇しくもプログレの話で大いに盛り上がったものである。「イエスの曲ならぜんぶ歌えますよ」と豪語する彼は、やがて宴もたけなわになった時、こんなことをいいだした。「そういえば、このあいだバンドの練習の帰りに吉祥寺のマクドナルドに寄ったら、ピンチョンの『ヴァインランド』をいっしょうけんめい読んでる人がいるんです。つい話しかけてしまいましたよ」。大笑いしたのはいうまでもない。のちに宮本氏は筑波大学へ移り、いまは 30年代ミュージカルの研究をもとに博士号請求論文執筆中、須川氏は青土社へ移り、『ユリイカ』編集長として<悪趣味大全><ジャパニメーション>はじめさまざまな企画でヒットを飛ばしまくり、いまはほかならぬオースター特集号を編集中だ。

この時のエピソードは、何度思い出してもおかしくておかしてく吹き出してしまう。ほらいさまざまな奇遇を演出するのは文学作品であるはずだが、にもかかわらずまさしくそうした文学作品を媒介にして現実世界にも文学以上に文学的なさまざまな奇遇が起こりうることを、その渦にわたしたち自身もいつしか巻き込まれているのだという不思議を、このエピソードほど雄弁に語ってくれるものもないからである。