2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:桜の木は残った

社会保険研究所刊
<年金時代> 2001年 7月号

桜の木は残った
巽孝之


いまは港区三田に住んでいるものの、生まれたのは渋谷区伊達町、現在でいう恵比寿三丁目の外れ。前世紀は昭和 30年、西暦 1955年のことである。生家にあたる祖父母の家は、このあたりですでに唯一残った木造洋館で、玄関前には巨大な桜の木がたわんでいるから、ご近所のかたにはすぐにわかることだろう。

現在の恵比寿は、ガーデンプレイス建設後、ホテルやデパート、ミュージアムが立ち並ぶ、東京でもっともファッショナブルな最先端文化地帯のひとつと化してしまったが、わたしが育った当時といえば、サッポロビール/エビスビールの工場を中心とする住宅街。我が家はちょうど目前の道が渋谷区と港区、品川区、目黒区の区境に位置していたから、何か事件が起こると新聞によって事件現場の区名が異なるなどということも、珍しくない。

さて、子どものころ、その区境は、自然教育園への「秘密の入り口」を意味した。我が家の目前の道を横切ると自然教育園南端の塀があり、わたしたちは自由自在に――すなわち入場料を払うことなく――そこをよじのぼっては教育園へ出入りし、大いに羽を伸ばしたものである。こっそりと壁を越えて出入りする「秘密の特権」ほどに、子ども心を酩酊させるものはない。何しろそこには、ホビット村ややかまし村など、都会の子どもには童話や児童文学でしか慣れ親しんだことのない自然環境がそっくり保たれていたのだから。

ところが、そんな秘密の日々もつかのま、東京オリンピックが開かれるのをにらんで、このすばらしい自然教育園がまっぷたつに分断されることになる。そう、いわゆる首都高速道路開通の工事が始まったのだ。しかし、子どもというのはふしぎなもので、だからといって嘆いたりしない。ましてや自然破壊の生態学的意味など思ってもみない。わたしたちはさっそく、のちに白金トンネルの名で呼ばれることになる工事現場へチャリンコを持ち込み、工事中の高速道路上へ出て颯爽と走ったものだった。自然に介入する高度成長期のテクノロジーは、それ自体、新たに遊び回るべき「もうひとつの自然」だった。

いまの恵比寿三丁目あたりは、大部分マンションで埋め尽くされてしまったが、我が生家はいまも変わらず、春になると豪奢な桜の花を咲かせる。聞けばこの洋館は、かつて慶應義塾が外国人教師を大学に迎えるさいに、その住居とするべく用意した建築のひとつであるという。数年前にはテレビでも報道され、伯母が出演したこともある。

ちなみに、いまもそこに暮らす祖母は 97歳(筆者註・本稿執筆後、2001年 7月 1日没)。近くに暮らすその姉である大伯母は去る 2001年 4月 24日で101歳を迎えた(筆者註・2002年 2月 2日現在も健在)。最近、わたしは大好きな映画を論じた『「 2001年宇宙の旅」講義』(平凡社新書)を出版したが、そのあとがきで大伯母への献辞を捧げているのは、彼女こそ前世紀初頭に東洋と西洋を股にかけて活躍し、三世紀もの時代を目撃することになった、もうひとりの時空の超越者であるからだ。

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1910年、慶應義塾からこの木造洋館を買い取ったのがわたしの母方の曾祖父にあたる医師・川瀬元九郎&富美子夫妻である。以後、 1930年代に入り、夫妻は三女であるわたしの祖母・稔子が銀行家・栗田大禄と結婚したのちにこの屋敷を与え、現在に至っている。現在、祖父母の孫五名、曾孫は六名が折にふれて出入りしている。川瀬夫妻の詳細は「ボストンの人々」参照。