2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:愛・命ある限り

銀嶺王国・『銀の竜』特集・TV番組 
『愛・命ある限り』
巽孝之

テキサスはオースティンあたりのTVじゃ日本の昼メロがスペイン語字幕で映るんだぜ、とゲラゲラ笑いながら話してくれたのはブルース・スターリングだった。かれこれ五年前、初めて同市の彼の家を訪れたときのことである。彼はじっさい日本製昼メロをゲラゲラ笑いながら観ていたのだろう。その態度は、昼メロならぬメロドラマ一般への接しかたとして、たぶんあまりにも正しい。メロドラマというのは日本的フォーミュラ文化史上、最も豊かな命脈を保つ形式であるが、あらゆるフォーミュラのご多分に漏れず、その本質は悲劇的どころか喜劇的なのである。

たとえば、七〇年代初頭に浅丘ルリ子・原田芳雄の「冬物語」、山本陽子・林隆三の「会えるかもしれない」のふたつがメロドラマTVのグレードアップに寄与したものは大きかったと思うが、その伝統は八〇年代後半にはミステリ・タッチを不可欠な条件としはじめ、高橋恵子・田村正和の「過ぎし日のセレナーデ」や篠ヒロコ・宇都宮隆の「誘惑」といった問題作をつぎつぎと生み出していく。 ここで重要なのは、さてどんなに月並みな悲恋をどのように錯綜した物語技術によって展開できるか、という一点である。悲恋は本質的であればあるほど悲劇的になるが、物語技術は錯綜すればするほどむしろ喜劇的になる。田村が主演した『ニューヨーク恋物語』を見るとよい。パート1は正統派メロドラマだったにせよ、パート2はほとんど正統派スラップスティックであり、これは逆に、悲劇と喜劇などというモードがいかに恣意的かつ交換可能なものであり、似たような悲恋を扱ったとしても要は語り方しだいという真実を突くだろう。それは同時に、悲恋もまた商品であるかぎり、高度資本主義社会のニーズに応じて、まずはその「物語技術」のほうからたえず変貌を迫られているということだ。

その意味で、月曜から金曜まで毎朝放映している「妻たちの劇場」シリーズ、とりわけ先日(五月二〇日)終わったばかりの「愛・命ある限り」のおもしろさは、ビデオを駆使しても全回分見通させてしまうものだった。 舞台は東都大学病院、医者と看護婦の恋愛が厳しく禁じられた、アメリカ・ピューリタン植民地時代を思わせる空間。その中で看護婦・津川葉子は有望な青年医師・島崎雅樹に想いを寄せるも、学閥制度内部におけるさまざまな嫉妬と謀略がふたりの行く手を阻み、そのあげく彼らに嫉妬した藤井助教授のさしがねで島崎の指導教授が殺されてしまうというのが大筋である。現代の視聴者に応じたミステリ仕立てのセクハラ・メロドラマという設定はここでも継承されているが、いっぽう時代的要請から考えれば、これはまあ『文学部唯野教授』をパロディ化したメロドラマ版お医者さんごっこであろう。つまり、そもそものコンセプトからして笑える悲恋、それが本作品である。

なるほど主役を演じる岩本千春は、あたかも日本的メロドラマ・オーディエンスの集団的無意識が欲望した結果の産物であり、彼女自身、日本的メロドラマティック・ティック・ヒロインの全モデルを解析して遺伝子操作・特殊教育を施されたかのような商品たりえている。だが、今日ではミステリをかませたぐらいでは視聴者は納得しない。『文学部唯野教授』によって学閥さえビジネス社会と同一構造の駆け引きであること、大学小説であっても実用的エンタテインメントとして笑えることを知ってしまった彼らは、ドラマ内部の派閥的抗争が激しければ激しいほど、ビジネス社会とのアナロジーを見出だしては笑いころげ、そのように楽しみながら何かを学んでいくというわけなのだ。

要するに、いま視聴者を「彼ら」と書いたが、これはいうまでもなく「彼女たち」、つまり「妻たちの劇場」を観たあとに働きに出る主婦たちを意味する。確実に昼メロと変わらない内容設定をもつ「愛・命ある限り」が、九時五五分から十時二五分までというプログラムで進行する理由は、そこにある。九時五五分、それは夫たち、子どもたちを送り出して台所仕事をかたづけ、さて一服してTVでもちょっと見ようかという時間帯としては絶妙の開始時間であろう。そして十時二五分、これもまた身支度をして午後からの出勤に備えるためには絶妙の開始時間であろう。

「愛・命ある限り」は、だから第一義的に働く主婦たちの学習装置かつ欲望再回収装置にほかならない。では、島崎医師と知り合ったヒロイン津川葉子がじつは未婚の母として娘・綾子とくらしているというややショッキング設定には、どんな意味があるのだろうか。これはべつだん彼女をあらかじめ多重悲劇の犠牲者とするべく施された人物造型ではありえない。むしろ本作品の視聴者が夫と子供をかかえた働く主婦であること、あるいは子供をひきとって働く離婚の母であることを見越したうえで、より多くの視聴者が感情移入しやすいよう考えぬかれたご都合主義だったのではあるまいか。

ヒロインの立場に立ってみれば娘・綾子は運命の子でありシリアスな実体であるが、いっぽうTV商品としてのメロドラマからしてみれば綾子は高度資本主義社会をフル回転させる対象視聴者の欲望再回収装置として不可欠なギミックでありジョークである。そのように対象視聴者を考慮に入れれば、「愛・命ある限り」がいかに喜劇的なポストモダン・メロドラマであるか、そのおもしろさは倍加するにちがいない。