2000/02/22

Miscellaneous Works:エッセイ:「英文学者」という原点

『産経新聞』1999年 7月 29日(木)夕刊 5面 

「英文学者」という原点
——江藤淳氏の学問をめぐって
巽孝之

 アメリカ文学を専攻するわたしには、国文学者・文芸評論家・保守派論壇人として幅広く活躍した江藤淳氏の仕事の全貌を見渡すことなど、とうていできない。にもかかわらず、いったいなぜこの場を与えられたのかといえば、ひとつには、現在のわたしが江藤氏のかつて学んだ慶應義塾大学文学部英米文学専攻において教鞭を執っているからであり、もうひとつには、氏が長く理事長の座にあった三田文学会の末席を汚しつつ三田文学新人賞選考委員を勤めているからである。

今回の訃報では、江藤氏が当初、英文学を専攻し、一九五七年の卒業論文は一八世紀英国小説を主題に『故ロレンス・スターン師の生活と意見』と題され、七五年には中世英文学を基礎とした博士号請求論文『漱石とアーサー王傳説』(講談社学術文庫)で母校より文学博士号を授与されたという経歴を、なぜか黙殺する向きが少なくなかった。しかし、文芸評論家・江藤淳は、まず外国文学者として出発したのだ。

西脇・厨川両氏の薫陶

慶應義塾における英文学研究の伝統は、戦前より、西脇順三郎、厨川文夫両教授の担当する古代中世英文学の教育によって築かれた。したがって、そこで学ぶことは、まず古代以来の英語そのものの文法と歴史を、ひいては活字印刷技術以前の時代の写本をもとにした本文校訂の意義と技術を、徹底的に叩き込まれるということに等しい。ヨーロッパより超現実主義の息吹をもたらした学匠詩人・西脇も博士論文は『古代文学序説』であり、その弟子・厨川の博士論文も古英詩『ベーオウルフ』翻訳とその註解を中心にしたものであった。当然ながら、学部時代の江藤氏は、彼ら二大権威の中に文学研究の原点を見出す。
 
厨川先生の授業に出るたびに、『ああ、これが学問だなあ、こうしなければいけないのだなあ』と感じて、先生の端正な貴族的な風貌への畏敬の念が増しましたけれども、結核の病み上がりで、就職する見通しも立たぬままに漠然と大学院へ進むことにしていた私の中には、学問に専心する気持ちになり切れないもやもやしたものがあって、結局私は『三田文学』に漱石論を書くことによってそのもやもやを相手にしなければなりませんでした」(「厨川文夫先生のこと」『回想の厨川文夫』[慶應義塾ライブラリ−、一九七九年]所収)。

この「もやもや」が何だったのか、いまは知るすべもない。おそらくアカデミックな外国文学研究かジャーナリスティックな文芸評論か、その二者択一を迫る存在論的な危機が訪れたのだろうと、憶測を逞しくするしかない。あたかも漱石が英文学を断念して作家になったように、江藤もまた大学院を中退して評論家にならざるを得なかった。 

ところが興味深いのは、以後も江藤が外国文学研究のこころを決して忘れなかったことである。一九六二年にロックフェラー財団によってプリンストン大学へ留学した時にも、当初は、ジャズ・エイジの旗手で同大学ゆかりの作家スコット・フィッツジェラルドに親近感を覚え、本格的に研究しようかと、いったんは考えている(『アメリカと私』[文春文庫])。のちに批評家ジョージ・スタイナーや学匠作家ウンベルト・エーコ、構造主義思想家クロード・レヴィ=ストロースらと積極的な対話を交わしたのも、外国文学者としての原点をそのつど再確認する作業だったろう。

漱石という生涯テーマ

やがて、帰国後数年が経った六七年、恩師・厨川文夫教授が、従来の学者が見過ごしていたウォルター・ヒルトンの『完全に関する八章』の新写本の校合と校訂、およびそれについての言語的・書誌的研究を英文で出版、ヨーロッパの学界をも震撼させたことに対し、江藤氏は尊敬ならぬ畏怖の念で接する。それは、漱石が志しながらもなしえなかった偉業であり、彼はそれを「明治以来の日本人の西洋研究の一つの頂点」と賞賛してやまない(前掲「厨川文夫先生のこと」)。 

このような文脈をふまえてみると、江藤氏が七三年より漱石の短編小説「薤露行」とサー・トーマス・マロリーの散文物語『アーサー王の死』の影響関係に着目し、再び厨川教授の指導を受けるべく決心したこと、そして恩師の影響濃厚なる本文校訂をふまえ、漱石の作品と伝記的背景を精密に連動させて前掲博士論文『漱石とアーサー王傳説』を完成したことは、大きな意味をもつ。同論文作成にあたり、江藤氏に大いに協力し熱い議論を交わしたアーサー王研究の権威・高宮利行氏も「(主題把握における)江藤氏の直感力も高く評価されてよい」と述べている(『アーサー王伝説万華鏡』[中央公論社、一九九五年])。 

むろん夏目漱石が江藤淳のライフワークであったことに、変わりはない。しかし、その過程において、古代中世英文学者・厨川文夫の眼を経たからこそ外国文学者・江藤淳の博士論文が成立したこと、まさにそうした経緯が文芸評論家・江藤淳に大いなる重量感を与えてきたことは、ここに改めて明記されなくてはなるまい。

2002年度付記

江藤淳氏は 1999年 7月 21日、鎌倉市内の自宅で逝去。享年 66。本稿は、産経新聞関西版の依頼により、同年 7月 26日に執筆されている。折も折、夏休みで別荘滞在中の本塾名誉教授・安東伸介先生より電話を受け、江藤氏と本塾文学部英米文学専攻の関わりについて「いささか偏った印象による記述が流布されているようなので是非とも詳細説明の機会を得たい」という申し出を受けたわたしは、さっそく三田文学編集部と相談し、武藤康史氏が企画を立案して、インタビューは今年にもその実現を待つばかりであった。ところが惜しくも去る 4月 21日、先生ご自身が帰らぬ人となる。だが今般、お蔵出し原稿整理中であった 6月 24日に、安東先生の親友であった元・日本英文学会会長・高橋康也先生の訃報を聞くことになるとは、まったく予想もしていなかった。謹んでご冥福を祈る。合掌。