1992/02/17

短編 "1955" とアリス・ウォーカーにおける白人観:第四章


第四章

"Nineteen Fifty-Five"=「白人社会への警告」における矛盾
 ウォーカーは白人による黒人の音楽の搾取を描くことで「白人対黒人」を一見して描いたかのように思えたが、そこには一つの矛盾が見られる。それは物語中に描かれたGracie MaeによるTraynorに対する優しい態度である。もしも、今まで示した50年代の白人社会に対する不満がこの短編、"Nineteen Fifty-Five"にあるなら、私の解釈したような白人が集約されたTraynorに対して黒人が集約されたGracie Maeの態度は厳しいもののはずである。しかし、そうではない。いったい、これはどう解釈すれば良いのか。
 まず、この矛盾の解釈を可能にするためにこの短編からそのGracie MaeのTraynorに対する優しい態度を見ていきたい。それは7頁のクリスマスの夜にTraynorがGracie Maeを訪ねてきたときのTraynorのGracie Maeのセリフである。
Merry Christmas, said he. And same to you, Son. I don't know why I called him Son, Well one way or another they're all our sons. The only requirement is that they be younger than us…. You looks tired, I said. Come on in and have a glass of Christmas cheer. (emphasis mine; GW,p.8) 
この優しさの表れであると思われるTraynorに対する呼びかけに何故"Son"が使われているのか。この他にもGracie MaeによるTraynorに対する「優しさ」が表現されているところがある。
After while I heard Traynor's voice singing the song, coming from the stereo console. It was just the kind of Christmas present my kids would consider cute. I looked at Traynor, complicit. But he looked like it was the last thing in the world he wanted to hear. (emphasis mine; GW,p.8)
斜体の部分を訳すと、「あたしたちの曲ってわけだね、とあたしはトレイノーを見た。」(訳,p.15)の「あたしたち」と訳した原文、"complicit"は、辞書をひいても絶対にでていない。"complicity"がその単語に一番近い語だと思われる。これはウォーカー独特の訛のある言葉のせいなのだろう。この言葉は、辞書では次のように訳されている。①共謀、共犯。②複雑さ(complexity)。ここでは勿論、Gracie Maeの話しぶりから①の意味であると思われるがこの言葉もまた上で示したGracie Maeの優しい態度を示す言葉なのではないか。
 同様に、10頁にはGracie MaeからTraynorへの手紙がウォーカーによって書かれているが、この手紙の出だしは"Dear Son, We is all fine in the Lord's good grace and hope this finds you the same…."だった。Gracie のTraynorを気づかう優しい態度は明らかに好意的である。そしてこの態度が決定的に示されるのは、「歌」を理解する為に必要な程、Gracie Maeの様に長生きしていないことを気付き嘆いていたTraynorに対して言ったGracie Maeの慰めの言葉だ。
Look like you on your way, I said. I don't know why, but the boy seems to need some encouraging. And I don't know, seem like one way or another you talk to rich white folks and you end up reassuring them. But what the hell, by now I feel something for the boy. (GW,p.14)
このGracie Maeの言っているアンダーラインされた部分、「いまとなってはあたしはあの子に何かを感じてた。」とは何を意味するのか。
ところで、上の8頁の"complicit"の訳、「私たちの(曲)」と同じ意味を持つ文が出てくる。それは17頁の"And all the women that grew up in him and my song squeal and squeal."である。このアンダーラインの部分「彼とあたしの唄」(訳,p.31)である。優しさもそうだが、ここまで見ていくと感じられるのは「仲間意識」の一種ではないか。そして、次の引用をみてほしい。
So there I am singing my own song, my own way. And I give it all I got and enjoy every minute of it. When I finish Traynor is standing up clapping and clapping and beaming at first me and then the audience like I'm his mama for true. (emphasis mine; GW,p.18)
「...まずあたしに向かって、それから観客に、まるであたしが彼の本当のおっかさんだとでもいうように、得意満面な顔をしてみせた。」(訳,p.33)は、今まで示してきた「優しさの態度」がGracie MaeとTraynorの親子のような関係を示していたことを見せてくれる。たしかにTraynorもまたGracie Maeに敬愛を示し、山ほどの贈り物を贈っていた。そして、Traynor自身、"I just come by to tell you I think you are a great singer."(GW,p.8)の様にGracie Maeを敬う発言もしている。前章でこの作品におけるウォーカーの思いを「白人対黒人」で片付けようとしたが、ここまで読み込んでいくとこの短編はそれほど単純ではないことが明らかになる。ウォーカーにとってこれらの奇妙な白人と黒人の関係はどういう意味合いをもっていたのか。普通に考えればTraynorは白人でありながら当時タブーとされていた黒人の歌を評価し、"black"の要素を取り入れた歌をうたったという意味で、またあるいは同じ歌をうたったことから血のつながりのある兄弟、親子のようにウォーカー自身の「白人、黒人わけ隔てなく仲良くしてほしい」という願望を込められてこの「優しさ」が表現されているのだと解釈するのだろう。しかし、私はこの白人に好かれる黒人、黒人でありながら白人に対して好意を持つという登場人物の態度、感情はウォーカー自身の感情にだぶってみえてきてしかたがない。ウォーカーは人一倍黒人の過去にこだわり、黒人の苦しみに気を使ってきたが彼女にはいくつかの興味深い点が見られるのだ。ウォーカーはIn Search of Our Mothers' Gardensの中の章、"If the present looks like the past, what does the future look like?"においてさんざん白人に近い肌の色を持つ女性を選んで妻にしている黒人指導者たちについて批判しておきながら、自分は実生活で白人の男性と(その後離婚したが)結婚し娘、レベッカをもうけている。確かに黒人白人分け隔てなく考え人間対人間でなにごとも考えているのだと多くの好意的なウォーカー研究家は結論づけるだろう。例えば、Publishers Weekly (V.219, Mr20, '81, p.56)ではこのYou Can't Keep a Good Woman Downについて次のように書いている。
…is a marvelous as Alice Adams pokes and probes, often too gently, to get to the heart of what it means to be black, what it means to be a woman, what it means to be human, "Imagine thinking that black people write only about being black and not about being people,"…It is the universal quality in Adams's stories that makes them so strong and so moving,…. (PW,V.219)
だが果たして人間に焦点を絞っているためだけにここまで私生活においても白人に好意的なのだろうか。私がこの卒業論文に扱っている"Nineteen Fifty-Five"が収められているYou Can't Keep a Good Woman Downの中のほかの短編、"Laurel"においてウォーカーは主人公によって黒人の男性、Freddie Pyeについてこのように語らせている。
Freddie Pye was the kind of man I would not have looked at then, not even once. (Throughout that year I was more or less into exotica: white male ethnics who knew languages were a peculiar weakness; a half-white hippie singer; also a large Chinese Mathematician who was a marvelous dancer and who taught me to waltz.) There was no question of belief. (GW,p.94)
上の言葉はウォーカーとも思われる黒人の女性によって話されている。これは確かにフィクションではあるかもしれないがここに書かれている話はほとんどウォーカー自身の体験をもとにしていると思われている。この短編集の役者、柳沢由美子氏も解説で次のように言っている。
作家はその人の生活の副産物で、人生と作品は一緒なのだという価値観を持つウォーカーだから、すべては作品の中で語られていると自負しているがゆえの沈黙であろうと思われる。(emphasis mine; GW,訳,p.281)
だが、作者の私生活によって作品を解釈することは出来ないと思うが、これらの白人に対してウォーカーは好意を示しているといえることから一つの推測ができてくる。それは彼女の人気の秘密である。三井 徹氏によると黒人でありながら人気がでている多くの著名人はふつう白人から見て無害であるそうだ。例えば、黒人のマイケル・ジャクソンが黒人のファンだけにとどまらず広く白人アメリカ、主流アメリカに受け入れられているが、三井 徹氏は次のようにいっている。
一般に認められているところでは、マイケル・ジャクソンはまず男前であり、言葉遣いはていねいであり、行儀はいいし、好みもいちおう洗練されている。それが万人受けするための大きな要素になっているのだが、それはおおむね白人アメリカの基準から見てのものである。歌もお踊りもきわめてリズム感豊かで、そこにははっきり黒っぽさが見てとれるけれども、全体はほどよく抑制されていて、白人を脅かすほどの強烈な黒っぽさはない。マイケル・ジャクソンは要するに安全なのである。白人は昔から黒人の音楽には惹かれてはきているけれども、本当にぎらぎらと黒人らしさをむきだしにしたものには、威嚇を感じて、受け入れてこなかった。マイケル・ジャクソンは、白人に不安を抱かせない、白人の反感を買わないという程度を心得ていて、それでこそ、八〇年代の生活のリズムにほどよく合った彼の音楽が広く受け入れられているのだろう。
(『コラムB面のアメリカ』,p.117)
ここで挙げられているマイケル・ジャクソンの他に三井氏はサミー・デイヴィス・ジュニア、ナット・キング・コウル、シドニー・ポワティエ、エディー・マーフィー、運動選手のカール・ルイスといった人達の名も示している。彼らに共通していることは勿論、白人にとって脅威的な要素が抑制されていることである。つまり、黒人でありながら白人に好かれる要素を、いわば白人的要素を多く含んでいるのだ。つまり私が考えるには、この彼女の黒人でありながら白人黒人分け隔てなく人間として人々を捉えようと一見して見える姿勢は白人からみて無害にみられ、人気の秘密になっているのかもしれない。
ここでもう少し具体的にウォーカーの非黒人的要素を抽出してみたい。Pulitzer PrizeとAmerican Book Awardを貰ったものの、タブーといわれたレズビアニズムや性的描写などのために波紋を投げかけたウォーカーの作品The Color Purple(1982)は、その3年後の1985年に(勿論白人である)Steven Spielberg監督によって映画化までされた。この映画はウォーカーの名を広める大きなきっかけになったが、それ以上に実は黒人社会からの大きな批判をも引き起こしていたのだ。小説における書簡体形式の登場人物のやりとりはセリーの"self-awareness"や"Celie's coming-to-historical-consciousness"(Kauffman,p.212)などの獲得を表現する大きな手段であったのに大きく省かれ、また、その小説において重要な意味を持っていた「曖昧さ」や「複雑さ」が破壊されてしまった。そのため、粗筋が単純化され映画では人騒がせなセンセーショナルな部分だけしか残らず、商品化されたことですっかり人種差別、性差別を無くす意図が見えなくなり、逆に人種差別、性差別を助長するという指摘までされてしまった。この映画が封切られるや、新聞や雑誌には『カラーパープル』に不満を表明する記事がいくつも見られるようになった。例えば、『ワシントン・ポスト』紙は、映画を見る前から憤慨している黒人男性の投書を載せた。また、ニューヨークの『デーリー・ニュース』の社会時評は、黒人男性が「人間以下」に描かれていること、自分たち黒人男性は今後このイメージをずっと背負わされるであろうことを訴えたという。これらの非難に対し、映画を製作した側のSpielberg監督、Walker、プロデューサー兼音楽担当のQuincy Jonesらは記者会見を行い、「この映画は黒人社会に特有の出来事を描いているわけではない。このようなできごとは、いかなる人種・民族グループにも起こり得る」(『朝日ジャーナル』,p.100)と説明したという。この記事を書いた河内和子氏はいかにその批判がくだらないかを、そして「ウーマニスト」としてのウォーカーの素晴らしさを説明している。しかし、これらをもう少し、深く掘りさげてみれば、いかにその批判が正しいか、そしてウォーカーがいかに白人性、黒人性両方を持つ人間であるかが分かるだろう。
 まず第一に、これらのウォーカーを批判する姿勢があまりにも熾烈だった一つの理由は批評家が何十万という小説を読まない人々が映画を見るだろうということに気付いていたからだ。となると、やはり上で書いたこの作品に対する偏見の助長は強固なものになってしまうのではないか。また、小説『ジュビリー』で有名なマーガレット・ウォーカーは「あの映画を見た多くの白人は映画のなかのできごと――特に父親の強姦や『ミスター**』の暴力を黒人社会に"典型的"なできごと、というように了解してしまう。あれが白人社会の物語だったら、誰も白人社会に"典型的"とは思わないんですけど。それを考えると、映画は性差別反対をせっかく訴えていても、結果的に人種偏見を助長してしまうわけなんです。」(『朝日ジャーナル』,p.100)とこたえている。
 そして第二にいえることは、上でも軽く触れたがSpielberg監督はあまりにもエンターテイメントに固執するあまり、"sexism"、"racism"を強調してしまったことだ。例えば、kauffmanもWallaceがいっていることは小説の中でShugがCelieに対して"self-esteem"の獲得に通じる性の手ほどきを示す場面で、"Shug urges Celie to touch her clitoris"のかわりに映画では"Shug urges Celie to smile"を示していることだ。これは"happy-go-lucky black"のステレオタイプが思わず頭に浮かんでくることで"racism"になるという危険性がある。Shelby Steeleは次の様にいっている。
Black American have always had to find a way to handle white society's presumption of racial innocence whenever they have sought to enter the American mainstream. Louis Armstrong's exaggerated smile honored the presumed innocence of white society ――I will not bring you your racial guilt if you will let me play my music. Ralph Ellison calls this "masking" ; I call it bargaining. But whatever it's called, it points to the power of white society to enforce its innocence. I believe this power
is greatly diminished today. Society has reformed and transformed ―Miles Davis never smiles.  (Shelby Steele, pp.45-53)
このSteeleの意見に対してKauffmanは次のように反論している。Spielberg監督がこの映画で人種的差別を助長するこの"smile"を至るところでいれていることから白人社会の"innocence"を強制する姿勢が未だに消えてはいないのではないかと、そしてSpielberg監督はよく考えてみれば、Indiana JonesやE.T、そしてClose Encounters of the Third Kindのような白人アメリカ社会の"childlike innocence"から成功したのでしょうがないとまで皮肉っている。これを許すウォーカーはいったいどういうつもりなのか。
 また、性差別を強調する要素は例えば、Shugの結婚である。KauffmanもWallaceも次のように述べている。Shugはブルースを歌い、結婚せずにミスターの子供を生んだことに対して彼女の牧師である父親に嫌われ勘当されたのだが映画ではクライマックスに近づくにつれて二人の歩み寄りが見られる。まず、Shugは結婚するのだが、映画ではその結婚は父親を喜ばせるために自分が"normal heterosexual"であることを証明するかのように暗示を与えている。Herntonはこのことを"the biggest capitulation of patriarchy, the most dastardly cop-out in the film, and the most blatant reversal of the what happens in the novel."(Hernton,p.30)といっている。また、Wallaceも"There are lots of little white patriarchal interventions all along the way."(Wallace,p.73)とのべている。また、Sophiaは小説では男性的な力強い女性として描かれ、性差別の犠牲者となり、最終低にはその勝者となったのだが、映画では「笑い」の対象として描かれているのだ。また、彼女の夫Herpoは何度も屋根の修理中に落ちてやはり「笑い」を誘う。Wallace によると、"She and Herpo are the reincarnation of Amos and Sapphire; They alternately fight and fuck their way to a house fool of pickaninnies….Encircled by the mayor, his wife, and an angry white mob, she is knocked down and her dress flies up, providing us with a timely reminder that she is just a woman."(Wallace,p.73)
 この様に、人種差別、性差別を助長する要素を多く含む映画の製作は、勿論ウォーカーの黒人女性作家という名声を貶めるのにあえてそうする姿勢は読者から見て理解に苦しむ。Wallaceはウォーカーの言葉の引用とともに彼女のその引用に対する意見を次のように述べている。
'What impressed me', Walker is quoted as saying, 'was Steven's absolute grasp of the essentials of the book, the feeling, the spirit.' She concludes, 'we may miss our favorite part' (the understatement of the year), 'but what is there will be its own gift….'Which only goes to show that few display the old feminist fervor and purism anymore. (Wallace,p.74)
つまり、ウォーカーは成功のために自分の魂を売ったわけだ。同様にKauffmanは次のようにいっている。
Walker purposely blurs the boundaries between "inside" and "outside", between margin and center, when she dedicates the novel "To the Spirit: without whose assistance neither this book nor I would have been written." Just as Celie concludes many letters with the affirmation of "Amen", Walker's Valedictory is , "I thank everybody in this book for coming"; she signs her last words "A.W.,author and Medium." …She disperses herself as the medium through which myriad voices
makes themselves heard. (Kauffman,p.219)
このような自分は使われて"medium"としての役割を果たしたという強調、これらのウォーカーの黒人社会に対する裏切り行為はここまでくると歴然としてくるのではないか。また、ウォーカーは自分のエッセイ、Living by the Word(1988)の中の"In The Closet of the Soul"で自分を白人とインディアンの祖先から血を受け継いでいるとのべているが、この点も彼女の白人らしさを表していると思える。"but, we are also the descendants of slave owners.(p.80)や、"my Great-great-grandfather, the slave owner and rapist." (p.85) のように述べ、黒人は過去に白人の血が混じったのだと、強調している。そして、なんと私が証明しようとしているその言葉を彼女はエッセイに書いている。それは"We are black, yes, but we are "white",too, and we are red."(p.82)(emphasis mine)である。


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